プロローグ 旅の始まり



■プロローグ 〜 旅の始まり ある出来事 〜

晴れた土曜日の朝は、我が家のパソコンと電話はフル回転だ。温泉旅館の当日予 約をするためだ。「お気に入り」に入っているいくつかのリンクサイトに紹介さ れている温泉宿に次から次へと電話する。なかなか空きがない。なぜか?私たち が探しているのは露天風呂付き客室だからだ。

露天風呂付き客室、これは小さな子どもを持つ親にとってはこの上なく便利な部 屋だ。

一般的な大浴場で、子どもは周囲を気にせず泳いだり、飛び込んだり。洗い場で いきなりおしっこをする。一緒にいる親は冷や汗ものだ。近くの人にお湯を浴び せかけるのではないかと常に気を配っていなくてはならない。それが子どもだ。 中には子どもが嫌いな人だっている。とにかく小さな子ども同伴での温泉では、 彼らが寝静まって初めて親はくつろぐことができるのだ。

しかし、露天風呂付き客室は、周囲を気にする必要なく温泉を満喫できる。子ど もが風呂の中で泳ごうが何をしようが関係ない。2人の子どもを授かり、成長し、 家族が自由に旅行出来るようになったとき、この露天風呂付き客室は私たちの 宿選びにおいて最大のポイントとなっていた。

露天風呂付き客室は、プライベートな空間で温泉を満喫できるというキャッチフ レーズで、旅行代理店やマスコミが煽り、一種のブームともなっている。テレビ や雑誌は癒しのプライベート空間を演出するこの客室をこぞって宣伝した。よく ある日本の宿ベスト100などではこの露天風呂付き客室をそろえた部屋がトップ10 にいくつもランクインする。そしてある程度の規模をもつ旅館やホテルはこのブ ームに続けとばかりに、露天風呂付き客室を増築した。そして私たちは利用した。

露天風呂付き客室は最低でも2万円代後半、3万円代が平均、高いところでは、5 万円、8万円なんてのもある。一泊の料金だ。一般的なサラリーマン世帯では、 なかなか気軽に行くことはできない。ところが私は会社を経営し、展開した事業 が次々と成功した。会社からの給料は4年で10倍を越えた。だから高額な宿泊料 については、全く気にはとめなかった。

晴れ渡った気持ちのよい土曜日の朝、いつものように当日予約し、出かけた。群 馬県の伊香保だ。メルセデスベンツが高速道路を140km/hで疾走する。ETCを 搭載しているので、料金所の渋滞も関係ない。あっという間に目的地に到着する。 温泉街としては、東京から2時間で行くことが出来る。石段の頂きにある伊香保 神社の奥から湧き上がった源泉は、鉄分を多く含み、赤茶け、石段街の周囲の宿 に分配される。それは多くの温泉ファンを魅了した。古き良き温泉情緒の残る街、 伊香保。

宿に到着すると、品の良い女将が出てきて、私たちを出迎えてくれた。建物は木 造の本館と鉄筋の別館がある。日本的なわびさびが効いた美しい内装と、これま た手をかけた素晴らしい純日本風庭園がある。通された部屋は宿の最上階で、温 泉街を見下ろす。晴れた日は遠く谷川連峰まで見渡せる広い2間続きの部屋だ。 子どもは思う存分駆け回ることができる。上出来だ。バルコニーには大人3人も 入れそうな大きな樽で作った露天風呂がある。湯口から、湯が惜しみなく注ぎ込 まれている。そしてこの絶景。最高だ。

値段も大人一人、3万5千円。安くはないが、露天付きの客室なら決して高いとい うわけでもない。仲居さんも丁寧な言葉使いで、気が利きそうだ。今日の宿選び は、成功だ、ここで今日は日ごろのストレスを解放し、存分に温泉を楽しもう。

そう思っていた。

さて、まずは風呂だ。露天風呂付き客室ならビールを飲みながら入浴できる。 割れる危険のないプラスチックのコップにビールをなみなみと注いで、子どもを 連れて風呂に向かう。湯は無色透明の単純泉。最近の伊香保はこれが多い。伊香 保特有の硫酸塩泉は限られた宿にしか配分されない。まあ、あきらめよう。それ はそれで許す。単純泉でも、効能が期待できるのは知っているし、この風景は何 物にも換えがたい。しかし、先ほどから、ひとつ気になることがあった。湯口か ら出る湯量が多すぎるのだ。さらにそれだけの湯を湯船に注ぎ込みながら、湯が 一滴たりとも縁からあふれ出ていない。

あきらかに循環風呂だ。

私は風呂から出てバルコニーの手すり、板垣の向こうをのぞいてみた。ポンプや バルブ、パイプがところ狭しと設置されている。そしてとりわけ大きな装置に目 が行った。この装置のケースにはこう書いてある。

「循環式濾過システム」

やはり、そうか。風呂に戻り、風呂の底に吸入口があるのを見た。手をかざすと すごい勢いで吸っている。手の平がぴたりと吸入口に張り付く。やや力をいれないと手の平を外せない。息子は長髪にしているので、絶対深く風呂に潜らない よう注意した。間違っても毛髪がからみついたら、と思っただけで背筋が寒くな った。アメリカでプールの吸水口に髪をからめて溺死した若い男性のニュースが 頭をよぎった。

循環風呂とは温泉を循環させる装置付きの風呂だ。温泉資源(=源泉)が不足している場所 ではこの循環装置なくしては商売が出来ない。通常、風呂の底に吸湯口があり、 湯を吸いとり、フィルターで毛髪や皮脂、その他のゴミを取り除き、さらにその 湯を再利用するのである。

人が入った湯の再利用。これが循環風呂だ。このフィルターは、念入りに掃除し、 頻繁に取り替えないと、レジオネラ菌の菌床(きんしょう)になる。レジオネラ 菌で人が死んでいるのは温泉好きなら周知の事実だ。その原因がこの循環風呂で ある。レジオネラ菌は、これら人間の垢や脂をえさにして増殖するのだ。今では このレジオネラ菌対策として、行政が塩素を投入することを指示している。天然 資源の再利用は、地球環境問題を含め、避けては通れない問題だが、温泉まで再 利用されてはたまったものではない。

さらに様々な鉱物イオンを含む温泉は、酸素に触れると性質が変化する。温泉は 絞りたてのジュースのように、地表に湧き上がった直後でないと、その成分を十 分に楽しむことができないのだ。

つまり、私が今、入っているのは、温泉という名の屋外プールだ。

私は一気に興ざめしてしまった。

夕食の料理は、食べきれないほど豪勢だった。板長が部屋まで来て、タラバガニ を焼いてくれた。春のタラバガニなんて美味しいはずがない。しかし板長が自ら 部屋まで来て焼いてくれたことには心から感謝した。が、心の底は冷えていた。 ひどく斜めから見ると、温泉の泉質は気にするな、目をつぶれ、こんなにうまい 料理が食べられて十分じゃないか、と暗黙の声で言われているように感じた。そ して、この旅館で働いている従業員に同情した。

素晴らしい建築、贅をつくした料理、純日本風の庭園。何もかも素晴らしい。 重要な温泉以外は。つまり、私たちはここで温泉というイメージを消費している だけだ。温泉以外のファクターの素晴らしさは、偽の温泉、レジオネラの恐怖と 戦う温泉旅館の悲惨な実像を隠すためのアクセサリーのようなもののように思え てきた。私たちは高い金を払って、東京から来て、循環風呂に入っているという わけだ。

確かに、おいしい料理を食べて、景色の良いお風呂にはいる、こういう温泉の楽 しみ方もあるだろう。会社の仲間と来て、コンパニオンと遊んで、朝まで酒を飲 む、うん、こういう楽しみ方もある(私も嫌いではない)。しかし、良質の温泉 に入り、地中の成分で心身を癒したい、そんな目的で温泉に来る者にしてみれば、 果たして全国に、真の温泉と呼べるものがどれだけあるだろうか?

こうして我が家、SKR2の真の温泉を求める旅は始まった。



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